成功者ビジネス・不安ビジネスに騙されない
このブログ内で、度々少数優位のヒエラルキー構造についてお話させていただきました。
多数が少数を目指すことによりヒエラルキーは強固になります。
しかし、この多数が少数者と同じ境遇になることは、ヒエラルキー構造の崩壊を意味します。
従って、少数者は多数の人々に、「自分たちのようになれ」「自分たちを目指せ」といいながら決して届かないように嘘をついたりします。
この構造のものに成功者ビジネス・不安ビジネスがあります。
今回は、このヒエラルキー構造を利用した成功者ビジネス・不安ビジネスについてお話したいと思います。
成功者とは
この社会には、成功者と呼ばれる人がいます。
なにをもって成功とするかは本来人それぞれです。
自分でたてた目標を達成した人、失敗しても挑戦できた人、一つの仕事に打ち込めた人、好きな人と付き合うことができた、毎日がただ平穏である、など成功の定義は様々です。
しかし、今の社会では、有名になった人、お金をたくさん稼いだ人、メジャーな分野でなにか実績を残した人を成功者と呼んだりします。
実体はヒエラルキー上位者で間違いないと思われます。
何かのカテゴリーで人気上位1%に入るとか、その分野で上位1%以内の稼ぎがあるとか、そういった人が成功者と思われているのではないでしょうか。
例えば、プロ野球選手は全野球選手人口の1%にも満たない人しかなることはできません。
他にも、ホストクラブで生活が成り立つぐらい稼げるのは全体の3割程度で、テレビなどで取り上げられるほど稼ぐホストは、これも1%程度です。
特に人気商売といわれる職業ほど、この成功者少数の傾向は顕著です。
大学受験にしたって、東大に合格するのは、受験生といわれる人達の1%にも満たないでしょう。
前回、ヒエラルキーが価値を生み出すということについて取り上げましたが、彼らは少数であるがゆえに価値があると思われているのです。
人はたいていの場合、希少なもの、普遍的なもの、比較できるものに価値を見出すからです。
成功者ビジネス
この希少性に価値を見出す人間の価値観を利用したビジネスに成功者ビジネスがあります。
私が勝手につけた名称なので分かりにくいかもしれませんが、
「私のような成功者にならないといけないよ」
「一生負け組でいいの?」
「成功者になるためのノウハウを教えますよ」
と相手を不安にさせ、羨ましがらせたうえで
情報教材や、会員制の集会(サロンとか言ったりします)に入会させ会費をとったり、
有料会員向けのメール講座や、実際のセミナー等でお金を稼ぐビジネスです。
思い当たるところはないでしょうか・・・
成功者ビジネスをする彼らの特徴はざっとこうなります
〇彼らが成功者であると一目でわかるような外見をしている。
最近は、一昔前のように、高級ブランドの洋服やスーツをかっこよく着こなすかんじでは無く、Tシャツにジーパンといったカジュアルな服装が一般的ですが、時計や靴など細かいところに高価なものを選んでいます。
ワインを飲んだり海外のリゾートにいるなどの情報もよくだします。
また、定期的に高額プレゼント企画などをするかもしれません。
このように自分は特別だ、価値のある人間なのだと暗に印象付けようとします。
〇不安な情勢を語り、生き残るために成功しなくてはと不安感と焦燥感を与える。
実際、今の社会は不安で溢れています。正社員ですら終身雇用は危うい状況です。
彼らは巧みな話術でその状況を語り、不安を煽ります。もしくは一般の人間をさりげなく落とし不安にさせます。
しかし、不安だからセーフティネットをつくろう、団結しようという考え方はしません。
あくまで、勝ち負けや優劣で差をつけ、成功者だけ生き残ろうというスタンスです。
〇ノウハウを学べば私たちにもできると吹聴します。しかし、そのノウハウは簡単には教えてはくれません。
無料である程度までは動画サイトやブログで公開していたりするので見てみると面白いです。
今まで書いたような、不安や焦りを煽る内容、ノウハウを学べば誰でも成功者になれるといった内容はもちろん無料で公開してあります。これもコピーライティング技術の一つなのです。しかし肝心な部分、実際に何をしたらいいのか、どういった心構えが必要なのかはあかしません。
知りたければ、この情報教材を・・・となったりします。
当然ですが、このノウハウを小出しにして儲けを得ようとするのが成功者ビジネスだからです。
〇私は成功者なので儲け目的ではありませんと念をおしてくる。
彼らの情報の信憑性と価値を高めるためにこう言います。実際に儲け目的ではないのなら無料で公開すればよいのですが、それはしないようです。
自分が成功者だと謳い、価値が高い人であるかのように思い込ませ、信者をつくりその信者からお金を得ようとするのが成功者ビジネスです。
たいていが宗教的なヒエラルキー構造をしています。
さて、実際に教材を購入したり、セミナーに参加したことが無いので、私にはわかりませんが、参加者は実際に成功しているのでしょうか。
主催者である彼らは実際の成功例をいくつかあげてみせるとは思います。
誰でもというわけではありませんが少数ならいるのかもしれません。
しかし肝心な部分を忘れてはいけません。
それは、ヒエラルキーは少数優位がなくなれば崩壊するという事実です。
彼らはヒエラルキーをつくり、自分に価値がある、自分は成功者だと思わせているのです。
彼らは成功した1%でなければなりません。周りが同じように成功し残りの99%と同じになったら、彼らに価値はなくなってしまうのです。
つまり本音では成功されては困るのです。
自分と同じような人間が大量複製されても困るだけです。
ねずみ講でいうところの親ネズミでなければならないからです。
「自分のような成功者になれ」と吹聴する人間にとっての成功が絶対的少数である1%以下の人間を指す場合は注意が必要です。
もし「人格者になれ」であれば皆が人格的に優れた人間になったところで、世の中が明るくなるだけですが、少数者を目指せであれば、やはり構造的に無理があります。
多数者は少数者にはなりえないからです。
不安ビジネス
上で挙げた成功者ビジネスは、成功者本人が登場しているため、まだかわいいものであると私は思います。
この成功者ビジネスの本質は、相手を不安にさせて、という部分です。
相手を不安にさせて購買意欲を刺激する、これらのビジネス全般を不安ビジネスといっても誇張ではないのではないでしょうか。
成功者ビジネスも不安ビジネスの一種です。
ですが、世の中にはかなり巧妙に隠された形で不安ビジネスがはびこっています。
コマーシャリズムの多くが不安ビジネスの要素を持っています。
不安が慢性的になればそれは飢えになります。
不安ビジネスとは相手を飢えさせてお金を儲けようとするビジネスといってもいいと思います。
不安ビジネスがはびこればはびこるほど、人は飢えに対して鈍感になっていきます。
例えば、通勤に必要だから車を購入する。これは一般的なものです。
しかし不安ビジネスでは通勤に車が必要ない人に
「周りの人間も持っているのに持っていないのは恥ずかしいよ」とか
「車を持ってないなんて貧乏人だと思われてしまいますよ」
といった形で不安を煽ります。そして購買意欲をそそるのです。
成功者ビジネス・不安ビジネスにのらない
私は、たとえ彼らの言う成功者になれなくても、負け組と言われても、
または買わなかったことで貧乏人だと思われたとしても、成功者ビジネス・不安ビジネスにのらないという決意を持つべきであると考えています。
それが飢えない価値観につながるからです。
購入するときは「必要だから」買い、買った後は、たとえ他の所でもっといいものがあったとしても「必要だからこれでよかった」とし「いいお金のつかい方をした」とすればいいのです。
成功者が1%未満の少数者であるとするならば、そこに自分も入らなければならないと不安になることが間違いなのです。それは飢えた価値観です。
まるで、当選確率1%以下の宝くじが当たらないと人生が終わりだと考えるようなものです。
何かを頑張っていたら上位1%にはいっていたというのならいいのです。
飢えの感情とは無関係ですから。一つの道を究めることは素晴らしいことです。
しかし、ヒエラルキー構造が作り出す価値観にとらわれてはいけないと思います。
それは生き残るために他者を出し抜き喰らう蟲毒の思想です。
たとえ社会的に成功者でなくても、負け組でも、「自分は成功した」とか「生きていることは成功すること以上のものだ」と考えられたらそれでいいのです。
そう思ってやるべきことに邁進していったほうが、宝くじが当たらないことを嘆くよりよっぽど有意義であると思います。
今回もありがとうございました。次回もよろしくお願いいたします。
飢えとヒエラルキー⑤~価値とは何か~
数回にわたり、飢えとヒエラルキーについての私の考えを書いてきました。
しかし、まだ触れていない部分があります。それは
なぜ人はヒエラルキー構造をつくろうとするのか
という根源的な問いです。
飢えを満たすため、もちろんそれが答えになってしまいますが、ヒエラルキー構造では飢えは満たせないどころか、永続的に飢えることになります。
ヒエラルキー構造をつくっても飢えは満たせないんです。
ではなぜ人はヒエラルキーを形成するのか。
その答えは
価値
というものにあると思います。
人は、共有できる「価値」を生み出そうとして、ヒエラルキーを形成するのではないか、というのが私の結論です。
価値とは何なのでしょうか。今回はこの「価値」をテーマにお話をさせていただきます。
価値を宿すもの
価値とはなにかと定義をすることはとても難しいことです。
経済学でもこの部分は「インセンティブ」という言葉でぼやかしています。
大雑把に定義するなら、価値とは「その人にとって有難いもの。重要だと思えるもの」となるでしょうか。
価値とは実態のないものです。
実際に科学的に「これが価値だ」と示すことはできません。
価値とは、人間が見出すものなのです。
人が自由に見出すことができるものなのです。
人は、物体に価値を見出したりしますが、形のないもの、概念にまで価値を見出すことができます。
価値は人間が自由意思で見出すものですから、本来は人によって千差万別です。
異性の好みにしても、顔のつくりに価値を見出す人、稼ぐ能力に価値を見出す人、小さな事にこだわらない性格に価値を見出す人、様々です。
価値は、感じるか感じないか、信じるか信じないかで決まりますから、あまりに自由である一方で、ひどく曖昧なものであるともいえます。
私は「価値」は神様のような要素、つまり神性があるな、と思っています。
価値は神の代理のようなものなのかもしれません。
価値には宗教的な要素が切っても切れない関係としてあります。
しかし、この曖昧な価値こそが、人の行動原理、動機になります。
人は価値のためになら、地球の反対側に行くことさえ厭いませんし、酷いときは人を殺したりもしてしまいます。
今ではラーメン屋の卓上にポンと置かれているコショウのために、中世ヨーロッパの人々は大航海に繰り出しました。
小さな土地に宗教的な価値を見出した人々は、何百年もその土地をめぐって戦争をしています。
そして、人がまとまるのにも価値が重要な意味を持ちます。
ヒエラルキー構造は、多くの人が足りないと感じた同じものを目指すと出来上がるものです。
この「足りないと感じた同じもの」は「価値のあるもの」と言い換えることができます。
つまり、価値がヒエラルキー構造を形成し、ヒエラルキー構造が価値をより確実なものにするということです。
価値は、人の行動原理であり、人がまとまるのにも必要だということになります。
同じ要素を持ったものについて、私は何度も話してきました。
そう、「飢え」です。
飢えも、人の行動原理であり、人がまとまるための重要な要素です。
では、飢え=価値なのでしょうか。
答えは半分正解といったところでしょうか。
飢えは価値の十分条件ですが、必要条件ではありません。
価値は自由意志できまるものです。対する飢えは慢性的な欠乏感です。
慢性的に欠乏しているものに価値を見出すなら飢え=価値になります。
この場合は飢え=価値は正解でしょう。
しかし価値の面白いところは、自由に見出すことができるという点です。
慢性的な欠乏を受け入れ、欠乏しているものに対し「大した価値はない」と決めてしまえば
飢え=価値は成り立たなくなるのです。
例えば、金銭的な収入が少なくても
「自分は満たされている、幸せだ」
と、今の生活に価値を見出せば、慢性的にお金が不足していたとしてもお金の価値に振り回されなくなります。
しかしこれは簡単なことではありません。
意識して不足が大したことが無いと思わなければならないからです。
欠乏していない他のものに価値を見出さなければならないからです。
無意識に欠乏感に囚われると、人は簡単に飢え=価値という価値観に囚われてしまいます。
ですから、多くの場合、人にとって価値とは欠乏感と変わらないものになります。
飢え=価値
この、飢えが元となった価値にはいくつかの共通する要素があります。それは
〇希少であればあるほど価値がある。
〇普遍的(人気がある)であればあるほど価値がある。
〇不変的であればあるほど価値がある。
〇比較ができる
という要素です。
人は欲しいと思ったものが、希少で手に入りにくく、尚且つ多くの人に認知され欲されていて、価値が時間とともに劣化しないものを「有難い」とするのです。
さらに比較ができると、見ず知らずの人間とも共有ができます。
共有できれば、より希少性と普遍性は高まりますから、価値が増幅できます。
いくら希少でも、どのくらい希少なのか比較できなければ価値は見出せません。
この要素を満たせばどんなものにも価値をつけることができます。
例えば価値があるものとされている「金(ゴールド)」にあてはめてみると、
金は希少ですね。何トンという鉱物のなかで数グラムしか取れないのが金です。
採掘された、現存する金は全部で25メートルプール3つ分の体積しかないとも言われています。
また、その美しい見た目は貴金属としても非常に人気があります。
それは古今東西いつでも変わりません。
最後に、金は柔らかさこそありますが、酸化したりと変化しにくいものとして知られています。金は時間が経っても劣化しません。常に輝きを放っています。
変化しませんから、重さで比較ができます。大きさ、重さによる純度で価値の比較ができます。
つまり、金は飢えの価値の要素を満たしている物質といえるでしょう。
金のように初めから、このような価値の要素をもっているものもあります。
しかし、人間は意図的に、これらの条件を満たすものを作り出すことによって、
本来は価値のなかったものに価値を与える、ということをするようになります。
そのとき人はヒエラルキー構造を作ることで価値を創ろうとします。
価値を創る
ヒエラルキー構造は足りないものを頂点としたピラミッド型になります。
その足りないものを「価値のあるもの」とすれば、価値は共有できるものとなるのです。
この構造の頂点に近づけば近づくほど、比較した場合の価値が高まっていきます。
反対に、ヒエラルキー構造を意図的に作り出せば価値を生み出すことができます。
(飢えとはなにか④~ヒエラルキーの作り方~)
前回は正規分布する要素を使いましたが、そうでは無いものに価値を与える場合、人為的に価値を生み出すためには幾つかの条件を満たさなければなりません。
それが上で挙げた条件
〇希少であること〇普遍的であること〇不変的であること〇比較ができること
です。
価値をつけたいものが、たくさんある場合は少ないと嘘をついたりしなければなりません。あるいは生産量を減らします。(石油などはその典型です。)
多くの人にとって普遍的だと思わせるため、知名度を上げなければなりません。
そして、ものにって千差万別にならないよう、同品質、同価格が望ましくなります。
さいごに、ほかのものと比べてどのぐらい優れているかをはっきりわかるようにします。(数字で示せれば尚よいでしょう。)
こうやって本来はたいして価値のないものに価値を与えることができるのです。
コマーシャリズムはその役割を果たします。また、宗教においては、聖職者がその役割を担います。
企業のコマーシャルをみてみてください。
「早くしないと売り切れる、簡単には手に入らない」と希少性を謳い
CMを莫大な費用を使って広く流布することで普遍性をもたせ
どこでも同じ品質同じパッケージの商品を販売し
他社との比較で、優位性を喧伝します。
なぜ、企業が莫大な広告費をつかってまで宣伝をするのか
それは、ものに価値があると思わせるためにほかなりません。
実際に企業がどのぐらいの額を広告費として使っているかを知ると、驚くばかりです。
それだけ価値があると思い込ませることは、人の行動原理に重大な効果があるのです。
反対にそうまでしないと、価値を見出すことができないものを売っているともいえるのです。
貨幣価値
人間が意図的に価値を後付けしたものの代表が「貨幣」です。
貨幣は常に
〇希少である
〇普遍性がある
〇不変性がある
〇比較できる
の要素を求められます。
そうでないと貨幣の価値は紙くずと変わらないものになってしまいます。
貨幣は無価値のものを価値があるように見せかけたものです。
現金にしたってただの紙と金属です。いまや紙よりコンピュータ上の数字でしかなくなっています。
ただの紙と金属、ただの数字に価値があるように思わせるのが今の経済のしくみの核となっています。
貨幣が増えすぎるとインフレーション(貨幣の価値がさがる現象)になります。
そうならないようにお金を発行する人間は通貨供給量を制限します。希少性の維持です。
貨幣が普遍的であるようにするために、国の力を使います。国は最も普遍的な権力を持っているからです。国が発行したものだ、と見せかけるのです。
また、国が税金を徴収し、税金で財政を賄うことで貨幣の価値はより普遍性を持つようになります。
貨幣は、商品に比べて価値が変わりません。
例えば、生鮮食料品は消費期限が過ぎれば無価値になりますが、貨幣に期限はありません。貨幣は死滅しない、つまり不変です。
貨幣は比較ができます。商品との比較、海外の貨幣とも比較ができます。
この条件を満たしている間は、貨幣には価値があるのです。
最後に
価値というものは、とても宗教的な要素を持っています。
不確かなものを信じるのが宗教です。
そして価値は実際は不確かなものです。
不確かなものを共有するためには、ヒエラルキー構造をした宗教的要素が必要不可欠であると私は思うのです。
貨幣の問題にせよ経済にせよ、本質は非科学的であり、宗教的なのです。
経済学者は数式やグラフを使い、さも科学的であるかのようにしていますが、
私は本質が宗教的である以上、多くの人がそのことを知らなければならないと思います。そうでなければ洗脳的になってしまうからです。いや、もうなっています。
宗教的ですから、多くの人が信じなければ、価値は存在しないも同然です。
多くの人間が、目に見えなければ信じないと、銀行にあるお金を現金化しようとすれば、銀行は立ち行かなくなります。
また、その貨幣を発行している国そのものへの信用がなくなれば、貨幣の価値もなくなります。
それは非科学的な話です。
20世紀、人は科学的な要素に重きを置き、非科学的な要素はあえて見ないようにしてきました。
しかし21世紀は、価値について見直しが始まる世紀です。
価値は宗教的であり非科学的なものです。
もう一度、人は、過去の宗教的なものについて考え直せなければなりません。
そうでなければ、また同じような道をたどり、同じように洗脳され、同じよう全体主義に陥り、また過ちを繰り返します。
多くの場合価値は飢えに支配されてしまいます。
しかし、飢えの価値観を脱却し、自らの意思で、飢えない価値観を見出すことがこれからの私たちに必要なことだと私は考えています。
本日もありがとうございました。次回もよろしくお願いします。
飢えとヒエラルキー④~ヒエラルキーの作り方~
今回はヒエラルキー構造を人為的に作り出すには、というテーマになります。
私の考えた方法ですが、おそらく一般的にも同様の方法がとられていると思われます。
誰かが意識してかそれとも無意識的にかはわかりませんが、簡単に作れます。
だからこそ世の中にはありとあらゆる階級ができあがるのではないでしょうか。
男女別の身長や、体重、大規模な模試の結果などを分布図にしてみると
平均値付近が一番高く、平均から離れるにしたがって緩やかに低くなっていくものを見たことはないでしょうか。左右対称で、釣り鐘型の分布図です。
例えば日本人成人男性の身長の分布図は170cm付近を頂点とした釣り鐘型になります。
この170cmは日本人男性の平均身長でもあり、よくみられる身長ということにもなります。
このような左右対称な釣り鐘型の分布図の代表的なものを「正規分布」(ガウス分布)といいます。
正規分布は英語で Normal distribution と言うことからも分かるように『この世でもっとも一般的な分布』であり、「誤差の大きさの出現確率」をはじめ、さまざまな社会現象や自然現象に当てはまる確率分布です。
アタリマエ!
「正規分布とは何なのか?その基本的な性質と理解するコツ」より引用
このように社会や自然を統計的に見てみるとよくある一般的な分布になります。
統計学的に厳密に定義するなら、「平均値と中央値と最頻値が同一である分布図」となりますが、ヒエラルキー構造を作る場合そこまで厳密でなくてもできます。
正規分布に近いほどヒエラルキー構造は出来やすいと思っていて間違いないでしょう。
少数優位の法則
自然な分布が、なぜ正規分布のようなかたちになるかというと、証明されているわけではありませんが、
わたしは「ちょうどよい値」がある場合、その値を中央とした分布になるのではないかと考えています。
たとえば先ほどの身長でいえば、中央値に来る身長が、もっとも今の社会環境で生きていくうえで無理がない身長であるともいえるのではないでしょうか。
だからといって、低いのは良くない、高いのは良くないというわけではなくて、低い人にはデメリットもあるけどその分のメリットもある、同様に高い人にもデメリットはあるけどその分メリットがある程度のことであると思います。
低ければ狭い場所での細かい作業に有利ですし、高ければその逆もあるかもしれません。
そのどちらも異常というわけではなくて、分布の中に納まるようであれば正常なわけです。
中央値とは最もメリットデメリットともに無い、つまり無理がないとだけ言えるわけです。
そしてそれは環境の変化によって変化していくことも忘れてはいけません。
ちょうどよいはその時、その場所で変わっていくからです。
さて、しかしながら、ヒエラルキー構造はそれを許しません。
ヒエラルキー構造の絶対的な法則、それは少数優位の法則です。
さきほどの分布図で中央値はもっとも人数が多くなります。
したがってこの範囲にあてはまる人はヒエラルキー上位にはなれないのです。
では、どのようにヒエラルキー構造はできあがるのか
具体的な例を元に見ていきましょう。
数学テストのヒエラルキー
3年B組で数学のテストを行いました。
下表はそのときの点数と人数の関係を示しています。
この表を棒グラフにするとこうなります。
なんとなく60点付近を中央値とした正規分布をしているように思えます。
ここは厳密でなくてかまいません。
よし、まぁいいでしょう。(笑)
ヒエラルキー構造は少数優位です。このグラフにおける少数とは、もうお分かりだとは思いますが、高得点者です。90点、100点付近の人にしましょう。
0点から20点付近の人も少数者ではないかという声が聞こえてきますが、難易度として考えた場合、高得点と低得点、どちらがとるのが難しいでしょうか。
また、ヒエラルキーは多くの人が同じ足りないものを目指したときできます。
生徒たちが足りないと感じ、欲しているものは点数です。
このことからもヒエラルキー上位は高得点者になります。
では、ヒエラルキーをつくるため、まず最低ラインを決めます。
お見苦しい絵で申し訳ありませんが、上の図のように、適当な部分で区切ります。
どこでも構いませんが、ここが最低合格ラインです。
ここより下はヒエラルキー構造にすら入ることができないようにします。
入れても構いませんが、彼らはヒエラルキー構造の維持のためにはむしろ脅威になります。もし、「数学のテストになんか意味がねえよ!」と周りを巻き込んで革命を起こされたら困ります。
だから切り捨ててまともな扱いをしないようにするのです。
むしろ迫害したほうが治安は保たれるかもしれません。
さて、ここまできたら後は簡単です。
このグラフを上位者が頂点になるように90度傾けます。
すると、なんということでしょう!
ピラミッド型のヒエラルキー構造ができているではありませんか!
このように
正規分布に近い分布・少数優位の法則・下限に満たない層の切り捨て
上の条件を満たせばヒエラルキー構造が出来上がります。
この場合、得点を取る秘密を知っている高得点者が支配者層
(あるいはテストの出題者が支配者層でしょうか)
平均点以上が維持層
平均付近とそれ以下がマス層といったところでしょうか。
「ちょうどよい」と「あればあるほどよい」
本来、正規分布はちょうどよい値付近に中央値がくるようにできるというのが私の考えです。
かといって中央値に近いから優れているとか良いとかではなく、ただ、その時、その環境でちょうどよいわけです。
ちょうどよさは頻繁に変わります。
飲む薬の量や、食べる量、運動量、生活に必要なお金、これらのちょうどよさは人によって千差万別です。どのくらいが適切だ、なんて基準は本来はないのではないでしょうか。
時代や環境でちょうどよさは即時的に変わりますから、正解なんてあってないようなものです。
反対に次の時代に適したものは今の「ちょうどよくない」層から発生するわけです。
ですから「おまえはちょうど良くない」と悪であるかのように扱うことがちょうどよくない考え、偏った考えになります。
つまり、「ちょうどよさ」とは、多様性を受け入れるとも言い換えることができます。
ヒエラルキー構造の価値観は「~であればあるほど良い」
というものです。
テストであれば「点数が高ければ高いほど良い」となります。
ヒエラルキー構造は一方向的です。
高い人間が正義であれば、低い人間は悪になります。
たしかに一方向的であればまとまりやすいんです。
全体共有ができる。
そして安定しています。
しかし、何時までたっても満たされない安定なんです。
つまりちょうどよくない。
ちょうどよくないものを目指すために、常に無理を強いられるのがこの構造です。
わたしはこれを「飢えた価値観」と呼びたいと思います。
まとめ
以上がヒエラルキー構造のつくりかたです。
次回以降またお話ししますが、コマーシャリズムは意図的にこういった構造をつくろうとしています。
そのほうがお金になるからです。
みんなが同じものを欲し、ヒエラルキー構造ができあがると、そこに価値が生まれます。
テストであれば高得点者は「価値がある」とされるわけです。
コマーシャリズムはこの価値観を作り出し儲けを得ようとします。
現代社会はこの「~であればあるほど良い」という価値観にとらわれすぎてはいないでしょうか。
それは飢えた価値観です。
年収は高ければ高いほうが良い。
偏差値は高ければ高いほうが良い。
女性の体重は低ければ低いほうが良い。
反対にバストは大きければ大きいほど良い。
タワーマンションの階数は高ければ高いほうが良い。
努力はすればするほど良い。
先ほど例に出した身長も「高いほうがいい」といわれていますね。
でも本当にそうでしょうか。
私たちはこういった無理のある価値観に洗脳されてはいないでしょうか。
本来はちょうどよさがあるだけなんです。
「~であればあるほどよい」というのは、不自然な飢えた価値観ではないでしょうか。
ただ、最近はその傾向も変化してきています。
多くの人が、この無理強いさせられる価値観に疲労困憊し、失望させられたからだと思います。
わたしは「ちょうどよい」価値観をもってほしいと考えています。
そして本来自然はちょうどよいんです。
人間も本来の自分を認めさらけ出せればちょうどよいんです。
無理がありません。
ヒエラルキー的にはダメでも自分は自分にとって「ちょうどよい」と思える存在であるべきです。
ちょうどよさは即時的で、すぐに変化します。
だからこそ固定概念や常識では対応できない部分もあると思います。
しかし、自然を意識すればちょうどよさは心が教えてくれるような気もしています。
心こそちょうどよさを知るセンサーの役割を果たしているのではないでしょうか。
今日もありがとうございました。
次回もよろしくお願いいたします。
飢えとヒエラルキー③~宗教とヒエラルキー~
なぜヒエラルキーはまずいのか
当ブログでは度々ヒエラルキーについて取り上げてきました。
なぜヒエラルキーについて取り上げるのか。
ヒエラルキーは「同じ足りないもの」を多数の人間が目指したときに生まれると書きました。
その足りないものにアクセスしやすい順に階級のようなものができていきます。
そしてなにより重要なのは、このヒエラルキー構造は
大多数によって支えられなければ存在できない少数が、大多数の上に存在し、
そのために大多数の飢えは満たされることはない
という点です。
ヒエラルキー構造においては大多数は常に飢えの状態を強いられるという状態におちいってしまうのです。
もし満たされたらヒエラルキー構造自体が崩壊してしまいます。
そのため上位の少数者は大多数を常にコントロールしようとします。
彼らは大多数から搾取することで安泰だからです。
コントロールするために「奇跡」をでっちあげたり、自分たちが目指すべき存在であるかのように振舞います。
しかし、目指すのはいいが到達されては困るので肝心な部分は隠したり嘘をついたりします。
飢えがヒエラルキー構造を生み、ヒエラルキー構造が飢えの状態を持続させる
という点が問題なのです。
もちろん、飢えは成長を生みますから、うまくいけば発展が望めます。
しかし、いくら発展しても飢えが満たされない限り、人は、喜びのある生き方ができないのではないでしょうか。
飢えない価値観を見出すためにはこのヒエラルキー構造は避けて通れない要素になります。
ヒエラルキーは宗教でまとまる
ヒエラルキー構造を維持するために、宗教は重要な役割を果たします。
宗教的とは、不確かなものを信じることです。
確かなものを信じるならそれは科学や学問になります。
ヒエラルキーという実際には存在しない形而上学的なものに、価値があるようにみせかけるには、宗教的な要素が不可欠なのです。
これは物の価値についても同様なことが言えます。
その物に価値があるかというのは、実際は需要と供給の関係を考慮に入れたとしても、個人個人が決めることです。
そしてその物の価値は、状況や場所、価値観など人によってバラバラに異なります。
実際の価値とは不確かなものだからです。
しかし、その物の価値を集団全体で共有する場合、そこには宗教的な要素が絡んできます。
集団全体で同じものの価値を共有する、価値を信じるということは宗教的行為であると私は思います。
また同様に、一つのものの価値を集団で信仰する宗教は、ヒエラルキー構造をとるようになります。
原罪という飢え
このような宗教的ヒエラルキーを強固なものにする強力な思想があります。
それは何かというと、「原罪」です。
あなたは生まれながらに罪を背負っていると、信者に植え付けるのです。
ヒエラルキーは飢えから成り立つとはすでにお話しさせていただきました。
ある種の宗教は、自分には欠損的な部分がある、足りない部分があるという罪の意識を教え込みます。
人は生まれながらにして十字架を背負っているというわけです。
このように確信犯的に飢えの状態を創り出すのです。
更に、「罪の意識が消えるためには、その宗教の信仰対象である神を敬わなければならない」とも言います。
また、多くの宗教では禁欲的な慣習、生活態度を求めます。
禁欲を断行した人間はどうなるか。もちろん欲求不満という「飢え」の状態になります。
こうしてヒエラルキーは強固なものとなります。
信者はみな聖職者のおっしゃる通りにすれば、少しでも神に近づけると熱心になります。
しかし、もし飢えが満たされたらヒエラルキーは崩壊しますから、すべてが救われてはヒエラルキー上位者は困るのです。
そのため彼らは、「救いは信じるすべての人のもとにある」とか「あなたが救われないのは信仰が足りないからだ」とごまかしたり嘘をつかなければならなくなるのです。
こういった要素を持たない宗教も存在するでしょう。
しかし、その宗教の規模が大きくなったりすると、大抵は同じような構造になっていくように思います。
とあるカルト教団の例
ある教団を例に出したいと思います。
例に出すぐらいですから、わりと一般的な宗教の要素を含んでいます。
特定の名称は伏せますが、この教団は、教祖が頂点のヒエラルキー構造をしています。
この教祖が「完璧なもの」であり「最も価値のあるもの」であるとするのです。
つまり、それ以外の人間は、教祖と比べたら不完全で欠陥的ということになります。
「原罪」と似ていますね。
もちろん本当にその教祖が完璧かどうかはわかりません。
ただ、完璧であることを知らしめるためにこれまでいくつか奇跡を起こしたそうです。
降霊術とか霊視とかを使えるそうです。
またこの教祖は霊格(どういった格なのかは不明です)が非常に高く、キリストや仏陀と同じ格であるともいわれています。
そして歴史上の人物や、有名人などの霊格を格付けし、信者に上の格を目指すことを求めます。
このような霊格で階級をつくり、ヒエラルキー構造を構成しました。
私は信者ではありませんから、どのようなことをすれば霊格が上がるのかはわかりません。
祈ったりすればいいのでしょうか。おそらくはそれでは足りないといわれるでしょう。
信者は禁欲的で、中には多額の寄付をする人もいるようです。
名称を特定された方もおられるかもしれませんが、多くの宗教が近いような要素は持っています。
奇跡・原罪・格、表現は違えども似たような言葉は使っていると思います。
こういった教団もヒエラルキー構造をとっている限り、大多数は救われないことと思います。
救われるとしたらそれこそまさに奇跡です。
教祖は奇跡が起こせるそうなのでそこに期待するしかないのかもしれません。
最後に
「飢え」でまとまった組織は飢えが解消されたら目的達成でなくなるはずです。
そこのところを、少数優位にすることで維持しているのがヒエラルキー構造をもった組織になります。
国や会社などの組織もこういった宗教組織と似たような構成をしていたりします。
国の場合、宗教そのものを組織強化のために利用したりします。
このような構造の組織に、大抵の人は、一つや二つ属しているものです。
しかし、この構造を理解していれば、たとえ組織から抜け出ることが難しくても、
組織の価値観に惑わされずには済むかもしれません。
飢えない価値観を持つにはヒエラルキー構造をもった組織の価値観から脱却することが必要です。
そのため、今回は長々としたお話させていただきました。
ありがとうございました。
日本人と宗教観①
日本人は宗教観が希薄だ、といわれたりしますね。
キリスト教の祭りであるクリスマスを祝ったり、かと思えば神社に初詣に行ったりと節操が無いと言われても仕方がないのが今の日本人の宗教に対する姿勢だと思います。
私自身、無宗教を自認しています。
私の周りでも宗教的な知識に疎く、どこの宗教にも属していない日本人はとても多いように思われます。
「実家は曹洞宗だから」
こうおっしゃる方もおられるかもしれません。
それは信仰というよりは慣習に近いものです。
それでは日本は歴史上ずっとこの宗教観でいたのでしょうか。
私は違うと思います。
歴史的に見ても日本には、一向一揆やキリスト教の禁令などをみても強烈な信仰心があったと思います。
明治維新後、廃仏毀釈などをとおして日本は天皇を神格化した強力な宗教観のもとで富国強兵を断行しました。
ヨーロッパ諸国が、キリスト教の宗教観を中心に国民国家を形成し発展したのを取り入れたのです。
この時の日本人の信仰心は、良い悪いはともかく、今よりははるかに強かったと思われます。
実際、敗戦までの日本の国としてのまとまりには目を見張るものがありました。
日本軍の強さは世界中で恐れられるほどでした。
植民地の開放、大東亜共栄圏を目指して戦ったわけです。
日本は同じ神を信じることで、国としてまとまりをもっていたと私は思います。
それほどまでに宗教は全体がまとまるのに重要だったのです。
しかし、この神様は太平洋戦争の敗戦によって殺されました。
アメリカはこの神様を殺すために、大空襲で民間人を何十万人と焼き殺し、二発も原爆を投下し、さらには昭和天皇とマッカーサーによる写真撮影までしなければなりませんでした。
日本人は神様を殺されたのだと私は思います。
この国の宗教観は歴史的にみても希薄だと私たち日本人は思い込まされています。
しかし、思いこまされているだけで、人間がまとまるには宗教的な要素は必要不可欠です。
戦後、それまでの体制を壊された日本人は、統治者(当時はGHQですね)によって都合の良い宗教的なものを信じ込まされたと私は考えています。
マスメディアはこの役割を担いました。それは現在もです。
そして本来はもっと考えるべき、もっと語るべきである宗教はある種タブーのようなものにまで成り果ててしまいます。
インテリといわれている層の人たちも、政治問題や経済問題ほど宗教問題を取り上げたりはしません。
せいぜいが「宗教にも課税するべきだ」という本質とは関係のない主張であったりします。
その結果、詐欺のようなカルト宗教が流行り、日本人の道徳意識も下がったことも、決して無関係ではありません。
一部の者にとって都合の良い価値観を植え付けるのためには
宗教観の希薄さ、信仰がバラバラであることはとても都合の良いものです。
私は日本人はもっと宗教について深く考えるべきだと思っています。
少なくとも宗教的なものについて学ぶべきです。
宗教観は道徳とも密接な関係にあります。
ドストエフスキーは「宗教無くして道徳はない」といいました。
ドイツの哲学者カントなどは宗教を介さない道徳を作り上げようとしましたが、
私も結局宗教的な要素は、道徳の初期においては必要不可欠であると思います。
ここ数年、道徳教育の重要性が見直されてきていますね。
しかし、宗教観について再度考えない限り道徳の問題も本質を無視した形式的なものにならざる負えないと思われます。
もちろん無宗教でいいのだと思います。
私自身今後何かの宗教に属することはないだろうと思います。
しかしそれは、同時に宗教とはなにかについて学ばなければ難しいことであると思います。
そうでなければ、今の世の中にはびこっている浅薄な「宗教的なもの」に囚われてしまう可能性があるからです。
コマーシャリズム、企業、学校、マスメディア、すべて実は宗教的なのです。
そして宗教的なものは飢えをもとにしたヒエラルキー構造を作り上げます。
私のこれ等の考えは哲学者の梅原猛さんの著作を読んでますます深まっていきました。
これから当ブログでも日本人と宗教観をテーマにしたものを取り上げていきたいと考えています。
そして宗教的なものに無意識に流されず、自分で価値観を選択していけるような人が増えていけばよいと考えています。
ありがとうございました。
飢えとは何か③~飢えは増殖を生む~
飢えとは慢性的な欠乏感であり、もしくは、その欠乏感を満たそうと恐怖に取りつかれた状態であると、当ブログでは定義しました。(飢えとはなにか①)
そして、この飢えが人間の成長を促し、文明を発展させたと書きました。(飢えとはなにか②)
今回は飢えが増殖を生み出すということについてお話ししたいと思います。
通常、豊かな状態になると人口増加が起きると考えてしまいますが、人口の爆発的な増加は貧困地域で発生します。
実際に、人口爆発が起きている国は、インド、東南アジア諸国、アフリカの一部地域など、発展途上国と呼ばれる地域です。
では貧しさが人口爆発の原因かというとそれは違うと私は思います。
例えば、日本の人口は江戸時代までは3000万人ほどで安定していました。
それがこの150年余りで4倍にも増加しました。
江戸時代と比べ、明治、大正と時代が進むにつれて日本は貧しくなっていったのでしょうか。
物質的にはむしろ、豊かになっていったはずです。
貧しい=人口増加と直結しないということです。
物質的には貧しかった江戸時代になぜ人口が安定していたか、
答えは飢えにあると思います。
飢えとは慢性的な欠乏感です。
物質的には豊かではなかったけれど、江戸時代は自給自足の生活が行われており、外国の脅威とも縁遠かったですから、精神的な欠乏感は明治時代より小さかったのではないでしょうか。
自給自足をしている社会では、人口は安定します。
食料の生産・供給量以上に人口は増加しないからです。。
しかし、江戸後期、日本は開国を迫られます。
そして250年にわたる徳川政権が終焉し、明治政府が誕生します。
明治政府は諸外国の脅威に対抗するため、富国強兵のもとに生産性を高めるための政策を次々と実行していきます。
官製工場が次々と建てられました。
富岡製糸場などが有名ですね。
この当時の日本人の中にあったのは
「もっと労働力が必要だ。もっと物資が必要だ。外国に負けない軍事力が必要だ。」
という欠乏感であったと思います。
それは慢性的な不安と恐怖であり、精神的な飢えそのものです。
それを補おうと、より多くの労働力が必要になり、
労働力である人が必要になりました。
実際、日本の人口は19世紀後半から急激に増加しています。
貧しさそのものではなく「飢え」が人口増加を生みます。
先ほど挙げた発展途上の国々でも同様です。
発展途上とは聞こえはいいですが、要するにまだ足りないものが多い、と言い換えることができます。
足りていないとは、先進国と比べてということです。
先進国との交流が始まった途端人口爆発が起きました。
先進国と比べた時、自分の国は足りないものが多い。
この欠乏感が飢えを生み、人口増加を生みました。
飢え+死の否定が増殖を生む
では、飢えがすぐ増殖に直結するのかというと、これもまだ正確ではありません。
増殖を生むもう一つの要素、それは死の否定です。
先ほどの人口爆発が起きた地域は、同時に死亡率も低くなります。
これは、先進国との交流の中で、ワクチンや薬が普及したり、医療が発達したり衛生面が改善されたためです。
飢えた人々が次々と死んでいく、という末期状態では増殖は発生しないのです。
死亡率の低下と欠乏状態が増殖を生み出します。
人口増加の話とは無関係ですが、原理的に近いものにがん細胞があります。
がん細胞とは、本来なら代謝の中で死滅していくべき細胞が、死なないどころか増殖し、ものによっては別の場所に転移、増殖していったものです。
死滅しないように、健全な他の細胞から養分を奪ってまで生き続けようとします。
こうしてがん細胞に蝕まれた身体は、みるみるやせ細っていきます。
がん細胞も健全な細胞から養分を奪っていくことからみても、慢性的な欠乏状態=飢えの状態といっていいと思います。
そしてそれに加え、死滅しないことが、がん細胞の増殖を生むのです。
他にも欠乏感と死の否定の要素を持ったものに貨幣があります。
もちろん貨幣も利子と信用創造で増殖します。
また貨幣は、インフレによって価値が下がっていくことはあっても、死滅はしません。
貨幣制度は、飢えと死の否定による増殖により、成長を促し続けるシステムです。
この話はいずれ詳しくしたいと考えています。
蝗害(こうがい)
蝗害(こうがい)というものはご存じでしょうか。
バッタのなかで、相変異をおこす種類のバッタが、大量発生することによっておこる災害です。
大量発生したバッタは移動しながら、農作物を食い荒らします。
現在では殺虫剤の普及によって発生はなくなりましたが、かつては世界中で食糧不足や飢饉をもたらすものとして恐れられてきました。
相変異とはなにかというと環境によって子孫の性質が変わる性質をもっているということです。
蝗害を引き起こすバッタの場合、相変異が起きると、羽が長くなって飛びやすくなり、普段は食べないような草まで食べるようになります。
この相変異のきっかけですが、
大雨などが降り、草が枯れにくくなり、バッタにとって死ににくい環境が整った時に起こります。
普段なら死滅してしまうはずのバッタが繁殖を繰り返した結果、繁殖力の高いバッタが大量発生します。
このとき個体同士の距離が触れ合うほど近くなったとき変異が始まるようです。
ここにも増殖の要素が見られます。
まず、バッタは繁殖力が高く変異によってあらゆる種類の草を食べるようになるほど飢えています。
それほど厳しい環境に普段は置かれていると言い換えることもできます。
そしていつもなら死滅してしまうものが大雨などの影響で死ななかった場合大量発生します。
飢えと死の否定が増殖を生み出す一例であると思います。
まとめ
飢えが増殖を生み出すということを考察しました。
正確には欠乏と死の否定がですが、死の否定とは飢えた生き物のとる純粋な行動のように思います。
蟲毒も、飢えた蟲が死なないようにと他の蟲を食べることで完成します。
蟲の中の毒性も増殖していると、昔の人は考えたのかもしれません。
飢えによる増殖は、指数関数曲線に近似するかたちで増えていきます。
急激にグラフのデータが増加傾向にあるという場合、指数関数的に伸びていたら
今回のような飢え+死の否定の要素があるものとして考えると、面白いと思います。
貨幣制度も増殖を取り入れていると書きましたが、
今回の内容を頭に入れたうえで経済について考えると、理解が深まりやすくなると私は考えています。
限られた空間での増殖は爆発を生みます。
爆発したものの末路は、破滅です。
あるいは爆発しなくても、増殖が無限に続くということは、自然ではありえません。
自然は有限ですから、その許容量を超えた時点で崩壊が始まります。
空気を含んで、大きくなった泡が破裂するかのようにです。
飢えは最終的に破滅を促します。
飢えたバッタも、農作物を食い尽くした後、もう食べるものがなくなると死滅します。
飢えた人間によるねずみ講商法は、無限増幅するように思えますが、そのうち必ず崩壊します。
自然のネズミは簡単に死にますが、欲に飢えた人間は、つかんだ利益を離さず、死のうとはしません。死なないため増殖していきます。
しかし、人間の生み出す富は有限ですから、いつかは必ず破滅するんです。
増殖とは、破滅の第一歩と考えてよいと思います。
私たちは、増殖と成長をはき違えないようにしなければなりません。
成長はいつか成熟に変わり、次のための種を残すものです。
しかし増殖は、その種すら食い尽くし、後には何も残りません。
増殖は、飢えの持つ恐ろしい一面であるといえます。
本日もありがとうございました。
飢えとヒエラルキー②
前回は飢えがヒエラルキーを生み出すということをお話しさせていただきました。
ヒエラルキー構造は支配者層・維持層・マス層の三層に分かれます。
時代や国、文化などで、さらに細分化されたりしますが基本構造は変わらないように思います。
今日はいくつかの実例を挙げてみたいと思います。
様々なヒエラルキー
ヒエラルキー構造のなかで最も広く知られているものが、このカースト制度だと思います。(図2)
ヒンドゥー教の身分制度でありインドではヴァルナと呼ばれています。
紀元前1500年頃から形成され現在もインドで根強く残っているヒエラルキー構造です。
ヒンドゥー教のヒエラルキーなので支配者層は僧侶であるバラモンになります。
その下に維持層である武士階級のクシャトリア
マス層に平民であるヴァイシャ、奴隷階級のスードラときます。
このカースト制度に疑問をもち、そのヒエラルキーから抜け出た人の中に、ゴータマ・シッタールタ、お釈迦様がいます。
シャカ族の王子であるゴータマは、このヒエラルキーの維持層であるクシャトリアに属していました。王族ですから維持層のなかでもかなり上位にいたと思われます。
しかしゴータマはこのヒエラルキーから抜け出し(出家し)、その後悟りを開き仏陀(ブッダ:悟りを開いた者)となります。
この話はいずれより詳しくしたいと考えています。
1789年にフランス革命が勃発します。
次はその当時のヒエラルキー構造です。
フランス革命は第三身分と呼ばれるパリ市民がブルボン王朝に対して起こしたものです
しかし、ヒエラルキー構造を変えたほどの革命かどうかは怪しいものがあります。
まずは図3を見てください。
1%に満たない支配層である聖職者に、約10%と言われている王侯貴族の維持層
マス層である第三身分の平民。
このマス層である平民階級が維持層に対して起こしたものがフランス革命になります。
当時のブルボン王家の王であるルイ16世は、先代、先々代(ルイ14世・ルイ15世)が残した莫大な借金に加え、イギリスからのアメリカ独立に対しての支援に膨大な国家予算を使ってしまったため、財政難に陥ります。
このことを当時のメディアが散々煽り、真実か怪しいゴシップ記事を垂れ流した結果、パリ市民が武装蜂起し、バスティーユ牢獄を襲撃したことが革命の始まりになります。
この知らせを受け避難しようとしたルイ16世は、パリ市民に捕まり拘留され、ギロチンで処刑されてしまいます。
このフランス革命ですが、ヒエラルキー構造を変革するほどのものであったかは怪しいと私は考えています。
まず、パリ市民という存在、彼らは実際の被搾取層であったか怪しいのです。
パリ市民とはむしろ維持層に位置していたのではないかというのが私の意見です。
フランスは昔から農業国家であり9割いるマス層のほとんどは農民です。
ジャガイモの生産を奨励するなどの政策をしていたルイ16世は、実はこの大多数の農民から人気が高かったという話があります。
この一般的な農民と、パリの街中に暮らすパリ市民は、極端な例ですが、今でいう地方農村で農業に携わっている人と港区のマンションに暮らす人ぐらいかけ離れた環境にいたはずです。
実際、農民の多くは主体的に革命に関与していませんし、それどころか革命後の混乱期の被害者であるとすら言っていいと思います。
調べてみると、ルイ16世は名君といって差支えがないと思います。
ルイ16世は人格者であり、拷問を廃止する法律を定めたり、三部会という聖職者・貴族・裕福な市民の会議を招集したりと、維持層内も含めた改革を推し進めようとしました。
財政難を改善するための改革を行った際、最も困るのはそれまでヒエラルキー構造の恩恵を受けていた維持層の人々です。
同じ維持層であるその他の王侯貴族は、ルイ16世とその王妃であるマリーアントワネットのゴシップ垂れ流しの犯人であり、革命勃発時真っ先に逃亡した人達でもあります。
彼らは革命の共犯者といっても過言ではありません。
パリ市民と王侯貴族という維持層が、改革を推し進めようとしたルイ16世に危機感を感じ、保身のために民衆を誘導し、民衆のルサンチマンに火をつけたのがフランス革命であったと私は思うのです。
しかし、維持層が維持できる許容を超えてしまったため、ナポレオンが登場するまで混乱に収拾がつかなくなりましたが。
もし、腐った集団のトップに、優しい人格者が就任した場合、生き残るのはどちらでしょう。
もちろん蟲毒よろしく毒性の強いものです。
フランス革命とは、あくまで同じヒエラルキーである維持層内の権力闘争であったと思います。
実際、この革命で支配層である聖職者は交代していません。
農民は相変わらず貧しい農民のままでした。むしろ被害にあいました。
まとめると、国家のヒエラルキー構造を変革するには、宗教革命レベルのものがなければ、革命や混乱もただの交代劇に過ぎないということです。
ちなみに、明治維新には宗教革命の要素がありました。このこともまた、別の機会に書きたいと考えています。
現代社会の社会構造
さて、最後は現代の日本のヒエラルキー構造についてです。
議会制民主主義や国民主権など、憲法や法律では規定されていますが、実際はこれまで同様、ピラミッド型の構造になっていると思います。
ただ、一見するとわかりづらく隠されていると思います。
勿論マス層を洗脳・誘導しやすくするためでしょう。
この構造はあくまで私個人の考えなので別の意見の方もおられるとは思います。
支配層は金融資本家でしょう。国籍は不明です。
アメリカでは1%と99%運動というデモ運動がウォール街で起きましたが、彼らはこの1%とみて間違いないと思います。
アメリカの上位1%が99%と同じだけの富を所有しているから1%と99%運動です。
ディープステートと呼ぶ人もいます。
「各国の通貨発行権の秘密に関与している人達」と定義してもいいと思います。
彼らの正体は本当にうまく隠されていると思います。
例えば、日本銀行の株主、アメリカ連邦準備制度:FRB(アメリカの中央銀行)の株主は公開されていません。
このことについてもいずれまとめてみたいです。
維持層は政治家・官僚・マスメディアです。
この層を支配層、諸悪の根源と見誤ってはいけないと私は思います。
なぜなら、彼らは維持層ですから、代わりが効くからです。
もし、失策をやらかしても辞職で、別の誰かがまた維持にいそしむだけです。
この層の人たちも支配層の秘密は知らない可能性が高いです。
最後がマス層です。特に私が説明するまでも無いと思います。
このマス層と、維持層、支配層の経済格差は今後ますます拡がっていくと思います。
まとめ
様々な国、時代においてもこのヒエラルキー構造は共通していると思います。
人間の歴史はこの構造の構築、崩壊、再構築の歴史のように私には見えます。
そしてこの構造は飢えが元になっており、大多数が飢え続けることで維持されています。
このヒエラルキー構造はもっと身近なところにも当てはまります。
例えば会社なら
支配層は筆頭株主
維持層が社長・役員
マス層がその他社員
といった具合です。
今後当ブログでは、さらにこのヒエラルキー構造について考察を深めていきたいと考えています。
支配者層はどのように支配者層になるのか
支配層はどのように下層をコントロールするのか
ヒエラルキー構造はどのように崩壊するのか
といったことについてです。
本日もありがとうございました。