飢えない価値観

不透明な社会の中で「飢えない生き方」を模索する雑記ブログ

日本人と宗教観①

日本人は宗教観が希薄だ、といわれたりしますね。

キリスト教の祭りであるクリスマスを祝ったり、かと思えば神社に初詣に行ったりと節操が無いと言われても仕方がないのが今の日本人の宗教に対する姿勢だと思います。

私自身、無宗教を自認しています。

私の周りでも宗教的な知識に疎く、どこの宗教にも属していない日本人はとても多いように思われます。

 

「しいて言えば日本神道かな。八百万の神様を信じてる」

「実家は曹洞宗だから」

 

こうおっしゃる方もおられるかもしれません。

それは信仰というよりは慣習に近いものです。

それでは日本は歴史上ずっとこの宗教観でいたのでしょうか。

私は違うと思います。

歴史的に見ても日本には、一向一揆キリスト教の禁令などをみても強烈な信仰心があったと思います。

明治維新後、廃仏毀釈などをとおして日本は天皇を神格化した強力な宗教観のもとで富国強兵を断行しました。

ヨーロッパ諸国が、キリスト教の宗教観を中心に国民国家を形成し発展したのを取り入れたのです。

この時の日本人の信仰心は、良い悪いはともかく、今よりははるかに強かったと思われます。

実際、敗戦までの日本の国としてのまとまりには目を見張るものがありました。

日本軍の強さは世界中で恐れられるほどでした。

植民地の開放、大東亜共栄圏を目指して戦ったわけです。

日本は同じ神を信じることで、国としてまとまりをもっていたと私は思います。

それほどまでに宗教は全体がまとまるのに重要だったのです。

 

しかし、この神様は太平洋戦争の敗戦によって殺されました。

アメリカはこの神様を殺すために、大空襲で民間人を何十万人と焼き殺し、二発も原爆を投下し、さらには昭和天皇マッカーサーによる写真撮影までしなければなりませんでした。

 

日本人は神様を殺されたのだと私は思います。

 

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須佐神社


 

この国の宗教観は歴史的にみても希薄だと私たち日本人は思い込まされています。

しかし、思いこまされているだけで、人間がまとまるには宗教的な要素は必要不可欠です。

戦後、それまでの体制を壊された日本人は、統治者(当時はGHQですね)によって都合の良い宗教的なものを信じ込まされたと私は考えています。

マスメディアはこの役割を担いました。それは現在もです。

そして本来はもっと考えるべき、もっと語るべきである宗教はある種タブーのようなものにまで成り果ててしまいます。

インテリといわれている層の人たちも、政治問題や経済問題ほど宗教問題を取り上げたりはしません。

せいぜいが「宗教にも課税するべきだ」という本質とは関係のない主張であったりします。

その結果、詐欺のようなカルト宗教が流行り、日本人の道徳意識も下がったことも、決して無関係ではありません。

 

 

一部の者にとって都合の良い価値観を植え付けるのためには

宗教観の希薄さ、信仰がバラバラであることはとても都合の良いものです。

私は日本人はもっと宗教について深く考えるべきだと思っています。

少なくとも宗教的なものについて学ぶべきです。

宗教観は道徳とも密接な関係にあります。

ドストエフスキーは「宗教無くして道徳はない」といいました。

ドイツの哲学者カントなどは宗教を介さない道徳を作り上げようとしましたが、

私も結局宗教的な要素は、道徳の初期においては必要不可欠であると思います。

ここ数年、道徳教育の重要性が見直されてきていますね。

しかし、宗教観について再度考えない限り道徳の問題も本質を無視した形式的なものにならざる負えないと思われます。

 

もちろん無宗教でいいのだと思います。

私自身今後何かの宗教に属することはないだろうと思います。

しかしそれは、同時に宗教とはなにかについて学ばなければ難しいことであると思います。

そうでなければ、今の世の中にはびこっている浅薄な「宗教的なもの」に囚われてしまう可能性があるからです。

コマーシャリズム、企業、学校、マスメディア、すべて実は宗教的なのです。

そして宗教的なものは飢えをもとにしたヒエラルキー構造を作り上げます。

 

私のこれ等の考えは哲学者の梅原猛さんの著作を読んでますます深まっていきました。

これから当ブログでも日本人と宗教観をテーマにしたものを取り上げていきたいと考えています。

そして宗教的なものに無意識に流されず、自分で価値観を選択していけるような人が増えていけばよいと考えています。

 

ありがとうございました。