飢えない価値観

不透明な社会の中で「飢えない生き方」を模索する雑記ブログ

飢えとヒエラルキー⑤~価値とは何か~

数回にわたり、飢えとヒエラルキーについての私の考えを書いてきました。

しかし、まだ触れていない部分があります。それは

 

なぜ人はヒエラルキー構造をつくろうとするのか

 

という根源的な問いです。

飢えを満たすため、もちろんそれが答えになってしまいますが、ヒエラルキー構造では飢えは満たせないどころか、永続的に飢えることになります。

ヒエラルキー構造をつくっても飢えは満たせないんです。

ではなぜ人はヒエラルキーを形成するのか。

その答えは

 

価値

 

というものにあると思います。

人は、共有できる「価値」を生み出そうとして、ヒエラルキーを形成するのではないか、というのが私の結論です。

価値とは何なのでしょうか。今回はこの「価値」をテーマにお話をさせていただきます。

 

 

価値を宿すもの

 

 

価値とはなにかと定義をすることはとても難しいことです。

経済学でもこの部分は「インセンティブ」という言葉でぼやかしています。

大雑把に定義するなら、価値とは「その人にとって有難いもの。重要だと思えるもの」となるでしょうか。

価値とは実態のないものです。

実際に科学的に「これが価値だ」と示すことはできません。

価値とは、人間が見出すものなのです。

人が自由に見出すことができるものなのです。

人は、物体に価値を見出したりしますが、形のないもの、概念にまで価値を見出すことができます。

価値は人間が自由意思で見出すものですから、本来は人によって千差万別です。

異性の好みにしても、顔のつくりに価値を見出す人、稼ぐ能力に価値を見出す人、小さな事にこだわらない性格に価値を見出す人、様々です。

価値は、感じるか感じないか、信じるか信じないかで決まりますから、あまりに自由である一方で、ひどく曖昧なものであるともいえます。

私は「価値」は神様のような要素、つまり神性があるな、と思っています。

価値は神の代理のようなものなのかもしれません。

価値には宗教的な要素が切っても切れない関係としてあります。

 

しかし、この曖昧な価値こそが、人の行動原理、動機になります。

人は価値のためになら、地球の反対側に行くことさえ厭いませんし、酷いときは人を殺したりもしてしまいます。

今ではラーメン屋の卓上にポンと置かれているコショウのために、中世ヨーロッパの人々は大航海に繰り出しました。

小さな土地に宗教的な価値を見出した人々は、何百年もその土地をめぐって戦争をしています。

そして、人がまとまるのにも価値が重要な意味を持ちます。

ヒエラルキー構造は、多くの人が足りないと感じた同じものを目指すと出来上がるものです。

この「足りないと感じた同じもの」は「価値のあるもの」と言い換えることができます。

つまり、価値がヒエラルキー構造を形成し、ヒエラルキー構造が価値をより確実なものにするということです。

 

価値は、人の行動原理であり、人がまとまるのにも必要だということになります。

同じ要素を持ったものについて、私は何度も話してきました。

そう、「飢え」です。

飢えも、人の行動原理であり、人がまとまるための重要な要素です。

 

では、飢え=価値なのでしょうか。

 

答えは半分正解といったところでしょうか。

飢えは価値の十分条件ですが、必要条件ではありません。

価値は自由意志できまるものです。対する飢えは慢性的な欠乏感です。

慢性的に欠乏しているものに価値を見出すなら飢え=価値になります。

この場合は飢え=価値は正解でしょう。

しかし価値の面白いところは、自由に見出すことができるという点です。

慢性的な欠乏を受け入れ、欠乏しているものに対し「大した価値はない」と決めてしまえば

飢え=価値は成り立たなくなるのです。

 

例えば、金銭的な収入が少なくても

「自分は満たされている、幸せだ」

と、今の生活に価値を見出せば、慢性的にお金が不足していたとしてもお金の価値に振り回されなくなります。

しかしこれは簡単なことではありません。

意識して不足が大したことが無いと思わなければならないからです。

欠乏していない他のものに価値を見出さなければならないからです。

無意識に欠乏感に囚われると、人は簡単に飢え=価値という価値観に囚われてしまいます。

ですから、多くの場合、人にとって価値とは欠乏感と変わらないものになります。

 

 

飢え=価値

 

 

この、飢えが元となった価値にはいくつかの共通する要素があります。それは

 

〇希少であればあるほど価値がある。

〇普遍的(人気がある)であればあるほど価値がある。

〇不変的であればあるほど価値がある。

〇比較ができる

 

という要素です。

人は欲しいと思ったものが、希少で手に入りにくく、尚且つ多くの人に認知され欲されていて、価値が時間とともに劣化しないものを「有難い」とするのです。

さらに比較ができると、見ず知らずの人間とも共有ができます。

共有できれば、より希少性と普遍性は高まりますから、価値が増幅できます。

いくら希少でも、どのくらい希少なのか比較できなければ価値は見出せません。

 

この要素を満たせばどんなものにも価値をつけることができます。

 

例えば価値があるものとされている「金(ゴールド)」にあてはめてみると、

金は希少ですね。何トンという鉱物のなかで数グラムしか取れないのが金です。

採掘された、現存する金は全部で25メートルプール3つ分の体積しかないとも言われています。

また、その美しい見た目は貴金属としても非常に人気があります。

それは古今東西いつでも変わりません。

最後に、金は柔らかさこそありますが、酸化したりと変化しにくいものとして知られています。金は時間が経っても劣化しません。常に輝きを放っています。

変化しませんから、重さで比較ができます。大きさ、重さによる純度で価値の比較ができます。

 

つまり、金は飢えの価値の要素を満たしている物質といえるでしょう。

 

金のように初めから、このような価値の要素をもっているものもあります。

しかし、人間は意図的に、これらの条件を満たすものを作り出すことによって、

本来は価値のなかったものに価値を与える、ということをするようになります。

そのとき人はヒエラルキー構造を作ることで価値を創ろうとします。

 

 

価値を創る

 

ヒエラルキー構造は足りないものを頂点としたピラミッド型になります。

その足りないものを「価値のあるもの」とすれば、価値は共有できるものとなるのです。

この構造の頂点に近づけば近づくほど、比較した場合の価値が高まっていきます。

反対に、ヒエラルキー構造を意図的に作り出せば価値を生み出すことができます。

(飢えとはなにか④~ヒエラルキーの作り方~)

前回は正規分布する要素を使いましたが、そうでは無いものに価値を与える場合、人為的に価値を生み出すためには幾つかの条件を満たさなければなりません。

それが上で挙げた条件

〇希少であること〇普遍的であること〇不変的であること〇比較ができること

です。

価値をつけたいものが、たくさんある場合は少ないと嘘をついたりしなければなりません。あるいは生産量を減らします。(石油などはその典型です。)

多くの人にとって普遍的だと思わせるため、知名度を上げなければなりません。

そして、ものにって千差万別にならないよう、同品質、同価格が望ましくなります。

さいごに、ほかのものと比べてどのぐらい優れているかをはっきりわかるようにします。(数字で示せれば尚よいでしょう。)

こうやって本来はたいして価値のないものに価値を与えることができるのです。

 

コマーシャリズムはその役割を果たします。また、宗教においては、聖職者がその役割を担います。

企業のコマーシャルをみてみてください。

「早くしないと売り切れる、簡単には手に入らない」と希少性を謳い

CMを莫大な費用を使って広く流布することで普遍性をもたせ

どこでも同じ品質同じパッケージの商品を販売し

他社との比較で、優位性を喧伝します。

なぜ、企業が莫大な広告費をつかってまで宣伝をするのか

それは、ものに価値があると思わせるためにほかなりません。

実際に企業がどのぐらいの額を広告費として使っているかを知ると、驚くばかりです。

それだけ価値があると思い込ませることは、人の行動原理に重大な効果があるのです。

反対にそうまでしないと、価値を見出すことができないものを売っているともいえるのです。

 

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貨幣価値

 

 

人間が意図的に価値を後付けしたものの代表が「貨幣」です。

貨幣は常に

〇希少である

〇普遍性がある

〇不変性がある

〇比較できる

の要素を求められます。

そうでないと貨幣の価値は紙くずと変わらないものになってしまいます。

貨幣は無価値のものを価値があるように見せかけたものです。

現金にしたってただの紙と金属です。いまや紙よりコンピュータ上の数字でしかなくなっています。

ただの紙と金属、ただの数字に価値があるように思わせるのが今の経済のしくみの核となっています。

貨幣が増えすぎるとインフレーション(貨幣の価値がさがる現象)になります。

そうならないようにお金を発行する人間は通貨供給量を制限します。希少性の維持です。

貨幣が普遍的であるようにするために、国の力を使います。国は最も普遍的な権力を持っているからです。国が発行したものだ、と見せかけるのです。

また、国が税金を徴収し、税金で財政を賄うことで貨幣の価値はより普遍性を持つようになります。

貨幣は、商品に比べて価値が変わりません。

例えば、生鮮食料品は消費期限が過ぎれば無価値になりますが、貨幣に期限はありません。貨幣は死滅しない、つまり不変です。

貨幣は比較ができます。商品との比較、海外の貨幣とも比較ができます。

この条件を満たしている間は、貨幣には価値があるのです。

 

 

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最後に

 

価値というものは、とても宗教的な要素を持っています。

不確かなものを信じるのが宗教です。

そして価値は実際は不確かなものです。

不確かなものを共有するためには、ヒエラルキー構造をした宗教的要素が必要不可欠であると私は思うのです。

貨幣の問題にせよ経済にせよ、本質は非科学的であり、宗教的なのです。

経済学者は数式やグラフを使い、さも科学的であるかのようにしていますが、

私は本質が宗教的である以上、多くの人がそのことを知らなければならないと思います。そうでなければ洗脳的になってしまうからです。いや、もうなっています。

宗教的ですから、多くの人が信じなければ、価値は存在しないも同然です。

多くの人間が、目に見えなければ信じないと、銀行にあるお金を現金化しようとすれば、銀行は立ち行かなくなります。

また、その貨幣を発行している国そのものへの信用がなくなれば、貨幣の価値もなくなります。

それは非科学的な話です。

20世紀、人は科学的な要素に重きを置き、非科学的な要素はあえて見ないようにしてきました。

しかし21世紀は、価値について見直しが始まる世紀です。

価値は宗教的であり非科学的なものです。

もう一度、人は、過去の宗教的なものについて考え直せなければなりません。

そうでなければ、また同じような道をたどり、同じように洗脳され、同じよう全体主義に陥り、また過ちを繰り返します。

多くの場合価値は飢えに支配されてしまいます。

しかし、飢えの価値観を脱却し、自らの意思で、飢えない価値観を見出すことがこれからの私たちに必要なことだと私は考えています。

 

本日もありがとうございました。次回もよろしくお願いします。